分の進路に迷ったとき、人間関係で思い悩んだ時、ライフデザインコーチングを取り入れてみませんか?

「こんなことができたら、どれだけ楽しい人生を送れるだろうか。けど、その叶え方が分からないし、うまくやって行けるかどうか自信がない。」

「社会で失敗ばかりしてきた。そんな自分はこれからどのように生きていくのが正しいのか分からない。だけど、このままじゃいけないと分かっている。」

「私はリーダーをやっていて、チームを引っ張っていく役目をしているが、メンバーに指導していても成績が伸びないし、いつも私の話を聴いてくれていないと感じる。」

こんなことで、大きくつまづいたりしたことがある方っていませんか?

これは、その方法が分かっていないからではなく、実は、

本当の自分が分からないことによって引き起こされています。

ですが、ライフデザインコーチングを体験すると、その本当の自分が分かっていき(ワカル)、

自分自身と対話することを通して、だんだんと本当の自分へ変わっていくことができます(カワル)。

ライフデザインコーチングを生活に取り入れると、自分自身と本音の会話(自分に素直になること)ができるようになったり、自分が本当に進むべき方向が明確になったりし、

自分の将来を明るいものにしたり、自分自身の人格(パーソナル)を育てることができます。

そして、ライフデザインコーチングを受けて来た人達は皆、自分のやりたかったことができ始め、

「思い描いていたことが実現した」

「目標としていた成果が達成できた」

「自分の気持ちを客観的に感じれるようになったことで自分に自信が持てるようになり、人との接し方までいい方向に変わった」

という風に、プラスに発展した自分の人生を大切にして生活をしています。

実際、そのように思い描いていたことが実現できたことによって、

「月収50万円〜100万円を得て暮らせるようになりました。」とか、

「周りからお客様をご紹介いただけるようになり、仕事の依頼が沢山来るようになりました。」とか、

今までの悩んで苦しんで来た頃とはまるで違い、「変わってよかった」と言う声を多く頂きます。

確かに、ライフデザインコーチングによって得た結果として、

  • 会話をよく聴けるようになり、上手く話せるようになった
  • お金の使い方が上手くなり、お金が増えるようになった
  • 時間の管理ができるようになり、仕事をしていても余裕がとれるようになった
  • 目標を計画通りに進められるようになり、収入が上がった
  • 先頭に立つことが苦手だったのに、リーダーを任された時、メンバーがとても協力してくれて、凄い成果が出せた

などの報告があり、誰もがそうなれたらいいなと思うものばかりです。


申し遅れました、私は、ライフデザインコーチをしている、尾崎 大祐(オサキ ダイスケ)と申します。

実は、ライフデザインコーチとして活躍するこの私も、元々はかなりのコンプレックスにまみれた人間でして、

若い頃は人の言うことを聞かないで無茶苦茶な人生を歩んで来ていましたが、

コーチングによって本当の自分を見つけることができ、現在に至っているのです。


尾﨑大祐が、ライフデザインコーチD.O として生まれ変わるまで

私がライフデザインコーチになったきっかけ

「もうそんなに何度も転落して、でもまた這い上がってくる人生を生きて来てるんなら、その経験で人を助けて行ったら?」と、ボソッと言われたのが始まりでした。

私は、子供の頃から現在に至るまで、波乱万丈な人生を過ごしてきました。

安定した生活をしたことがなく、無我夢中でやってきたことで数々の失敗をし、

何回か人間をやめようとしたことがあります。

それでも、自分で勝手に道を選んで来たことだからと言い聞かせては

何度も再スタートを切りながら、今までなんとかやってきました。

けれど、歳を重ねていくたびに、もうこれ以上傷を増やさないようにしていかないと、本当に将来が無くなってしまう。

そう危機感を抱きながら途方に暮れていた時に友人から言われた言葉だったのです。

「自分の失敗体験が、誰かを助けることになる。」

そうして私は、これからは自身の体験を通して人を助ける仕事で活躍していきたいと願い、

ライフデザインコーチとなりました。

人に負けてばかりの自分が悔しくて、人がしていないことをしたかった少年時代

私は、学歴がありません。代わりに、夢がありました。

私は少年の頃、ミュージシャンになろうとしていました。

私が取り組んでいた音楽は、「デスメタルバンド」での活動でした。

なぜこのような強烈で暴虐的なスタイルの音楽に精を出し、何を狙いに活動していたのかというと、

自分への劣等感を払拭したかったからでした。

私は、幼少の頃、明るくて豊かな家庭で育ち、近所の人からとても可愛がられるくらいに愛想のある子供だったのですが、

どちらかと言えば、勉強や運動ができる方ではなく、泣き虫で臆病な弱小者でした。

ただ、人の前に出ては芸をして楽しませる一面があり、舞台に憧れを持っていたこともあって、

小学生の頃から、地元の祭りでは張り切って踊りを踊ってみせたり、学芸会の演劇発表では奨んで主役をやったりしていました。

そして中学生になった頃から、ミュージシャンになりたいという夢を見るようになったのです。

そんな自分の中学生最後の秋の話ですが、地域の駅伝大会が開催されることになり、

私はその駅伝大会が嫌で嫌で怯えていたので、なんとか走らなくていいように断る理由を考えていたところ、

PTA会長から「実は、選手があと一人決まっていなくて、そこは中学生が担当する区間なんだけと、このままだとそこを小学生が走らなければならなくなってしまう。どうか走ってくれないだろうか?」と、

とても困惑した表情で懇願されたのです。

それを聞いた私はなんと、自分でも不思議なくらいに、二つ返事で「走る!」と強く答えたのです。

それからは、毎日行われる練習のチームリーダーを受け持ち、

もう逃げられないんだという覚悟と、負けて恥ずかしい思いをしたくないという一心で、

必死で練習を繰り返しました。

そして練習の結果、本番のタイムが2位だったと発表され、

今までビリしか経験したことがなかった自分はとてもビックリして、

「俺って、やればできる人間だったんだ。」と深く噛み締めたことがあったのです。

ちょうどその頃、母親から「お母さん、離婚する。」と、衝撃的な言葉を言われることが時々ありました。

その理由を訊くと、父親が家のお金や母の財布の中身を勝手に持ち出しては、ギャンブルで使い切っているということでした。

そのため、あれだけ豊かで明るかった家庭が、日に日に暗くなっては貧しくなって行き、

そのことがショックだった私は、だんだんと道を外すようになりました。

このようなことが重なったことから、「自分はこれからは強く生きていかないといけない。こんなにも悔しい気持ちを何かにぶつけたい、最恐になってやる。」とフラストレーションを抱くようになり、

奇抜で主張の強いものをまとったり、人と同じことを嫌ったりして、自分を外すようになったのです。

そんな自分がたどり着いたのが、デスメタルバンドだったのです。

ギターが、自分を見つけてくれた


平成9年、高校への進学を選択せず自身の描く将来を自分の力で掴み取りたいと想い、

働いてお金を貯めて都会に行くことを決めました。

前述の通り、その頃の私は決して物事に万能なタイプではなく、

どちらかと言えば何事も続かなくすぐ逃げるような人間でした。

そんな自分が唯一続いた大好きなことが、ギターでした。

周りがやってなかったことを自分はやっている。

他の人ができないことを自分はできた。

まだまだ何も知らなかった私がそのように感じて初めて自分で道を決めた瞬間で、

当時コレだと思うことを見つけたら他のことは捨ててでも追いかける傾向があった私は、

人と違う自分になりたいために進学さえしないと決め、働くことにしたのです。

通っていた中学校にて卒業式を終えた3日後に、最後の懇談がありました。

担任の先生から就業のことを聞かれ、決まっていない旨を伝えた瞬間、

2人だけの最後の教室に夕日が差し込んでは寂しさを伝え、

早すぎた社会への道をスタートさせたのでした。

ひとり孤独に、早すぎた道を歩み始める


結果、15歳だった私は働けるところが無く、
唯一頼れた親戚の経営する電気工事会社に雇ってもらい働いていました。

これでお金を貯めて都会に行こうと胸を膨らませていましたが、

未熟者で若すぎて社会歴が無いため、職場では叱られては叩かれ蹴られの毎日。

朝7時に出社して8時から現場作業を開始し、夜は9時10時まで帰れない毎日が続き、

友達が夏休みでも自分は休みなく働いていた日々には、かなり重たく太い電線を何本も連続で配線しては天井裏や床下に潜り込んだり、

マンホールの中で倒れそうになりながらも必死で電線を引っ張っているところを先輩が見に来ては、上手く作業を進められてないことに激怒され、

ヘルメットの上からハンマーで殴られたりすることもよくありました。

仕事を一生懸命やっても、仕事ができなければ叱られる。

その当然のことが毎日あるんだと思いながら勤めていれば流石に恐怖から覚えも悪くなり、

材料運搬や穴掘りやパシリなどの仕事しか与えてもらえなくなり、どんどん自信とやる気が失われて行きましたが、

「自分が選択したこと」だと言い聞かせて意地だけは持ち、何事にも「はい」と返事をしながら働き続けて行きました。

このように、思っていた以上に過酷な道を選んだことに気付かされた、早すぎた社会の現場から、

夢を追いかけるということは大変なことだと教えられていたのだろうと、今になって解ることでした。

この泣きながら耐えた3年間は、今でもよく夢に出てきては何かを振り返えさせられています。

それはそれは大変だった一人暮らし

平成12年より、単身福岡県に移住しました。

そして、色々なことを体験しました。

当時20歳前後の私は、音楽活動でプロとなり活躍していきたいという目標のために、

都会な市場で自身を磨き上げるという道へ進んだのです。

暮らし始めた最初の1年間は、仕事と生活の両立に苦しみながら過ごす毎日で、友人はいませんでした。

寂しさと孤独で道を見失いそうになりながら、心が折れそうになりながら、

それでも憧れだけは自分に光を当ててくれていました。

そのため就労をアルバイトなどで働き、お金と時間を活動に費やす大変さと隣り合わせになりながらも、

音楽をする時間を作るために頑張っていました。

そんな状況に合わせて仕事を当てはめていたため、パチンコ店・ガソリンスタンド・鳶工・土工などの仕事を行いながら、

接遇の世界の厳しさや職人の世界の厳しさ、単身の生活の苦しさを体験してきました。

胸張って新しいことをやってみるが、挫折ばかり


早すぎた社会で経験した仕事は建設に係る業界だったので、

新しい世界では今までやったことのない仕事をしてみたいと、

都会で就いた初めての仕事はパチンコ店の店員でした。

持ち前の好奇心と若さだけでやったこの仕事は、今まで体験してきた社会での厳しさの質が全く違うものだったため、

たくましく進んできた自分の鼻をへし折られるようなことばかりで挫折し、

長く続けられず逃げるかのように辞めてしまいました。

ガソリンスタンドも同様で、それに併せての屋外での接客と作業。

心に余裕や頼れるとこの無かった僕ではやり通して行けないのだろうと、賢くなかった当時の私でも理解したことを覚えています。

そのようなことから、音楽活動との両立ができて初めて都会に出た意味があるのだと振り返り、

ご縁から鳶工・土工の仕事に就き、夢に向かって再度歩き始めました。

過去の仕事の経験からコツの分かる仕事でやっていく方がいいと確信した僕は、生活のバランスも取れ始め、

いよいよ音楽活動のコミュニティーへの参加も積極的となり、仲間達との出逢いからグループ活動をスタートし、

各地へツアーをしたりしながら夢を形にして行きました。

お金での大きな失敗、それが原因で

福岡で暮らしていた頃、建設現場で働いていた時のD.O


この頃に大きな失敗をした出来事がありました。

それはキャッシングリボルビング払いというローン返済形式にて、

遊びや音楽活動資金を借りては毎月定額で返して生活をしていたということです。

20歳になりローンが組めることを知った私は、初めての一人暮らしで生活の大変さを感じていた頃でもあり、

便利が欲しくてたまらなかったためそれを利用してしまいました。

目的が不明瞭なことにお金を借りたことと、毎月一定額を返して行けばいいことが災いし、

その後5年間ほど、借りては返す日々を繰り返しては一向に終わらない体験をするのです。

そんなこともあって、生活基盤はどんどんブレ始め、都会で単身生活をしていくことが困難になって行き、

結局一度地元に帰って基盤を立て直すことを決め、都会での暮らしを終えることとなったのです。

全てはお金が原因で、その後の人生が変わってしまったのです。

結局、自分が弱かっただけだった

福岡で暮らしていた頃、バンドでステージに立っていた時のD.O


平成15年には、夢と現実の格差に打ちひしがれて鳥取県に戻ることにし、

この地元でできる形で活躍することを選び、地元企業への就労を決めました。

あれだけ夢高々に鳥取を離れたのに、思ったように音楽仲間が見つからずにどうしていけばいいのか分からなかった福岡の1年目。

生活も仕事も新しく1からスタートさせ、

遠く離れた見知らぬ土地での初めての一人暮らしは何事も必死で、

本当にやりたいことが手を付けられないことに苦しみました。

やっとの思いで出会った音楽仲間と活動ができてからも、生活をうまく営むのが難しく、

上記のような大きなお金の失敗をしたり、仕事と活動の両立が大変でお金も無かったり。

ありとあらゆることに疲れ切った私は、鳥取へ戻ることを決めたのでした。

そして、大変だった福岡で経験したことを改めて鳥取でやってみるとどうなるのか、

鳥取だと上手く行くのかを確かめたいと思いながら、福岡を終えたのでした。

ふるさとに帰って、心機一転で再スタート


鳥取に帰ってきてからは、警備員の仕事に就き趣味として音楽活動を続けては、

地域の音楽文化を盛んにしたく催しを開催したりしていました。

大都会でレベルの高い世界を見てきたこともあって様々な価値観やモノの見方が養われていたのか、

鳥取ではあえて地元地域の方言をタイトルにし、その上で都会にしかなかったスタイルでパフォーマンスをしたりして、

音楽イベントの開催や、地元の郷土芸能に参加しては、強烈なインパクトを与えて活動していました。

警備員の仕事においては、まともな学歴のない私でも一から使って頂けるということで、

選択肢の少ない中たどり着けたところだったのもあり、

必要とされて貢献できる自分を届けたかったかった思いから、資格を取得し、

規制計画・人員配置・現場統括・職長会議など、番頭としての立場で活躍を重ねて来ました。

交通規制の基礎知識を勉強し、規制図面を作成しては人員を配置させ、

現場監督からの要望を取り仕切っては、現場で働く隊員を労いながら安全な誘導を指示したりしていました。

時には大雪で高速道路が通行止になり、I.C前にて車両をUターンさせる誘導を行った時には、

-5℃の猛吹雪の中で沢山の車両が雪にはまり大渋滞となり、「お前らがこんな所で通行止めするからだろうが!!」と、

大型トレーラーが立ち往生したことで周りの運転手に激怒されながら、

腰まで埋まる雪の中を人力で雪掻きをしたり車両を押したりしながら、

規制解除が行われるまでを守ったこともありました。

規制開始から30時間、眠れない状態と食料が底を尽きる状態の中での業務だったので、今でも忘れられません。

頼まれてアルバイトに出た経験から気付いたこと

その傍らで、自身の人脈からの依頼も多く、単発的に仕事を請けるかたちで、

会席の配膳接客・荷物の宅配・露店の出店・店舗の清掃などの業務に携わることも多々ありました。

建設業がメインだった自分が、接客や販売を通しての楽しさと対応力が養われていくことに嬉しさを感じては、

とても忙しい日時に勤務する時々の体験に達成感を得ていたように思います。

そのような週末活動の経験からヒントを得て、
起業のように働くスタイルを形成している自分に気づいた頃でもありました。

「これって、お仕事の依頼を受けて自分を納品しに行っているってことなんだろうな。」そう感じて察したことは、

「商売をやるってこんな感じなんだろうな。」ということでした。

思い切った転職、大きなチャレンジへ

平成23年、勤めていた警備会社が倒産することに。

それを聞いたのは終わる半年前でした。

周りの同僚がチラホラと噂を始め、今後どうしていこうかと模索していた時に、

保険代理店をしてみないかというお話をいただきました。

その時は、自営業としてやっていくこと、保険業の厳しさ、

営業と言う仕事だけは人生の中で絶対にしたくないと思っていたのもあってお断りするつもりだったのですが、

よくよく考えれば、まともな学歴・職歴のない自分は社会のスタートの時から自分でやっていくしかない道を覚悟して選んだんだということを思い出し、

このご縁を信じたいと自分の将来を前向きに描いてみた結果、独立を決めました。

そして人生初めての独立。生命保険の代理店を開業した。しかし、


そして、アフラックの生命保険代理店として起業したのでした。

けど、それはそれは大変な日々をスタートすることになったのです。

サイトセラーを50回以上読む毎日。。。

1万円で中古のノートパソコンを買って初めてのPC作業。。。

沢山の教材やテキストを一気に渡されて、どれから手を付けていいのかわからない。。。

その日から、その翌日から、出勤がない変な感じと何をしたらいいのかわからない一日。。。

業務説明日から1週間経った頃、営業担当から電話があり「何件とれました?」と聞かれ、

いつから仕事がスタートしているのか、何からやればいいのかわからかった私は、

「まだ何もやってません」と回答したんです。

すると担当に「え、早く契約とりに行かないと!なにしてるんですか!」と言われてビックリし、

先ずは友人や知人に開業したことと、お話の練習に付き合ってもらいたいことを伝えて、

一人でも多くの人に会えるようにしていけと指導されながら、活動をスタートさせたのでした。

このように、よくわかっていない自分で常に訪問先を作っていかなければならないこと、

こちらからのアプローチによってかしこまった顔や声で「保険はいいです」と断られること、

それが繰り返されては行先が尽きてしまい、契約がとれなくて収入が得られないことなど、

開始早々から想像を絶するほどに苦しいことに見舞われて、しんどくて逃げ出したかった日々。

それでもこの仕事は、世の中の人々にとって突然訪れるネガティヴな物事や、素敵な将来を迎えるための準備を

「お金」という部分で支えていく大切な仕事である。と想いを抱き必死で続けて行きましたが、

必要としている人がいない(正確には今は求めていない)ことが営むことのとても難しい現実だったため、

生活の維持のためにも他の仕事も営むこととし、

兼ねてから活動している音楽芸能の分野から頼まれていたこともあり、

催し物や舞台に関する仕事も併せて行うようになりました。

独立をしたことで、思わぬ展開も起こった


それは、イベントに関する内容の業務でした。

この仕事では、何か気持ちを楽にして取り組める感覚でいられ、依頼を受けて業務するかたちだったことから、

数字のようなものに追われる感じが無くやれたりと、自然と事が展開されていく流れに加えて喜んでいただく反応が顕著に窺えたりで、

保険の活動とは性質が違うなと感じてやっていくことができたのです。

イベントの仕事では、企画の運営代行・進行計画の策定・資金の運用計画・舞台の演出・台本の作成・出演者の派遣手配・音響の施工操作・司会や舞台監督などを担当し、

少ない量の仕事ではありますが、地方自治体や民間団体、広告代理店や舞台制作会社から委託や応援を請け活躍していたりします。

このようなかたちで自身のビジネスを営んで来たことからでしょうか、

人と人を紹介しつなげていく依頼が多く、また自身にもつながることを依頼されることが増え、

現在では小中学校へ非常勤講師として授業を行ったりすることがあります。


あれだけこだわってやってきた保険販売をやめた


令和元年、私は保険販売をやめました。

そして現在は、ファイナンシャルプランニングやパーソナルコーチング、

お金の正しい知識や適切なお金の使い方の講習、

その計画や夢や目標を実現するためのサポートをする業務をしています。

それは、ライフデザインコーチという職業です。

私はこの保険代理店を営んでいる時はずっと、契約を取らないといけないという保険セールス側の事情に縛られて、

中性的に客観的にアドバイスすることが出来かねてしまうことに悩んでいました。

正直者なのか、その事情を度返しでお客様にとって中性的で客観的にアドバイスするタイプだったので、

セールスで数字を伸ばしていくのがヘタクソで、結局商売も厳しい状態が続き、

そして結果的に、そこを取り除きました。

保険セールスが全てにおいてこの様な事情だとは断言しませんが、

少なくとも私はこの様な実態を感じながら、保険業の世界で活動を続けました。

そして自身の意が反している感覚を抱きながらも、使命を持ちながら8年間営業していました。

そう、中性的にアドバイスしても、ご契約になり難い一面もあることを実感してしまったからです。

現在、保険販売をやめた私は、もっと中立な自分で

お客様目線でのアドバイスや計画ができる道を選択しました。

それがライフデザインコーチングでした。

ライフデザインコーチングは

人生で大切な生きがいとお金を健康化していける最適なサービスであること、

それをもっと世の中に知ってもらって味方に付けてもらえるよう普及して行きたいと思えたこと、

そこに感銘を受け、ライフデザインコーチとして再スタートを切ることにしたのです。

「挫折」がきっかけで資格を取った

それからの私は、自身が所有するファイナンシャルプランニング技能士の資格に、

さらに技能を追加したいと思い、認定コーチの資格を取得しました。

それは、私が保険代理店を営んでいるときに思ったように契約をいただけなくて苦しい思いをしたことがきっかけで、

自分が発するコミュニケーションのやり取りがお相手にとって一方的で厚かましく伝わっているのがわかり、

凄く気持ちを落としたことがあったからでした。

お相手に上手に話すことができて、契約をとってくる。

このような形で保険営業というセールスは成り立って行くと思われる方が多く、

そのため保険営業にはきまって、黒っぽいイメージがつきまとうものです。

私はセールスが苦手なまま、8年間代理店経営をやっていたためか、

最終的にはメンタルが壊れてしまって廃業をすることになりました。

営んでいる時にいつも思っていたことが、
「お客様となって頂く方に、必ず利益と安心が約束される保障を提供したい。」という想いでした。

ですが、その使命を強く持って必要なことを伝えていったとしてもお相手は難しい話だと感じるのか、

複雑な表情をされては、話は流れてばかりだったのです。

コミュニケーションを育てるのが、コーチング


その体験から、自身のとっているコミュニケーションを見直して行きたいと思うようになり、

コーチングというものがあることを知りました

コミュニケーションの基本はいかなる理由があったとしても、話を聴き、そして認めてあげること

その上で、相手のことについて色々と質問し、相手を主にして対話すること


コーチングをとことん勉強した私は、日本実務能力開発協会の発行する、

「認定コーチ」という資格を取得することができました。

「認定コーチ」という資格


取得した今思うことは、この資格が称号になることが目的ではなく、日常の単なる触れ合いから、

いままで以上に温かい気持ちで接することができるようになってよかったということです。

人の話を先ずは聴き切る。そうすると自然に関心が生まれて勝手に会話が弾むようになる。

上手く話さなければいけない、口が上手でなければならない。と、捉われていてばかりだった私を、コーチングが変えてくれました。

このように私には、苦しみながらも体験した、かけがえのないストーリーがあります。

そしてそのストーリーを大切にし、ライフデザインコーチとなって、心からよかったと感じています。

私のような人間でも、自分らしさを見つけて、なりたい自分で活躍することができている。

今私は、この感動を伝えていきながら、自分の人生を悔いなく過ごしていきたいと願う多くの人を助けることができているのですから…



D.O(ディーオー)

ライフデザインコーチ

尾崎 大祐(オサキ ダイスケ)


在住:鳥取県鳥取市

血液型:A

生年月日:S57.3.30


趣味:音楽
   水泳
   さんぽ

好きな音楽:EXILE
      和田アキ子
      THE CHAINSMOKERS


好きなもの:チキンラーメン
      ウォシュレット
      NEXCO西日本

1995年生まれのカメを飼っています(・へ・)



D.Oのライフデザインコーチングの特徴


「相談を受けてもらった時やコーチングを実施してもらった時、D.Oさんは特に、自身が失敗した時の体験に例えながら、それをどのように改善したのかや、その時に思っていたことや感じていたことまで添えて話してくれるから、自分の気持ちや思いと照らし合わすことができて分かりやすかったんです。」という言葉を頂いたことがありました。

その他に「自分の情けなかったことを惜しげもなく包み隠さずに話してくれるから、親近感が湧いてなんでも話しやすかった。」というご感想も頂いたりと、

私が、いくらコーチという立場なため先生と呼ばれることがあったとしても、

皆さんと同じ人間でありレベルの違いなんてものはなく、

人はそれぞれが体験してきたことで培う個性(ラベル)があることの方が正しいといつも考えていたので、

凄く嬉しい言葉でした。

これは、相談をされた方がいかに本音で、素直な自分で話すことができ、

自分をありのままに伝えることができた達成感から生まれたご感想だと自負しました。

皆さんもそうだとは思いますが、職場の人の中で素の自分で話したり接したりできる人って中々いないのではないでしょうか?

これが家庭においたとしても、父親な自分、母親な自分、夫としての自分、妻としての自分があり、

子供でさえ親に対して素直に相談ができなかったりするものだと思います。

それでも人は生きていると、自分の悩みや本音など、
素の自分を出してなんでも話ができる「第3の場所」が必要です。

そのようなコミュニケーションが取れる場所があってこそ、

職場や家庭での自分を健康健全に保つことができ、

日常生活を営みやすくすることができるのです。

実は、ライフデザインコーチが行っているパーソナルコーチングが、その「第3の場所」としての機能をしています。

日本人は、徹底的に対話をして理解や共感を得るという文化がありません。

会話の仕方も「それくらい分かるだろう」「気づいてほしい、察してほしい」的な表現となり、

具体的な説明や意思を率直に伝えることが少なかったりします。

そのため、それぞれの解釈の違いによって微妙に話が食い違ってくることがあり、

誤解や不信感が生まれて人間関係に亀裂を生じさせることがあります。

そのようなことから、自身の気持ちを整理するためには、

とことんまで話を聴いてくれる場所が必要となってくるのです。

そこに着目し、コーチングでは、

①話を徹底して聴き、
 ↓ ↓ ↓
②その話や発言を分かりやすく要約し、確認しながら理解していく。

という手順をを繰り返しながら、

相談された方の言いたかったことを整理し共感していくプログラムとなっており、

自己を実現するために発見や気づきのきっかけを与えることが、コーチの役目となります。

なので原則、具体的な助言は行わず、気づいてもらう対話をする形をとります。

ですが、時にこんなことに直面することがあります。

それは、人は「頑張れば頑張るほど、発見や気づきさえ生まれてこないことがある」ということです。

基本的に、目標を達成したい人の心って「頑張っている状態」です。

そんな時、発見や気づきができなくなってくることが案外あります。

私もコーチングを受けて来た一人なんですが、発見することにまで集中をすると、

逆に答えが出なくなり苦しいなと感じることが多々ありました。

その体験から、D.Oが行うライフデザインコーチングでは、必要に応じて助言まで行う

「コンサルティング」も導入しています。

こうすることによって、結果的に相談者自身で、解決の糸口や問題の答えを見つけ出すことができるようになるのです。


このようにして、困っている人やつまづいている人を救い上げ、

自分の足で再び歩いていけるように支援をするものが、

D.Oが行うライフデザインコーチングです。

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