ライフチェンジコーチングって一体なに?
世の中にこんなサービスがあったなんて
「あんなことができたら、どれだけ楽しい人生を送れるだろうか。けど、その叶え方が分からないし、うまくやって行けるかどうか自信がない。」
「社会で失敗ばかりしてきた。そんな自分はこれからどのように生きていくのが正しいのか分からない。だけど、このままじゃいけないと分かっている。」
「私はリーダーをやっていて、チームを引っ張っていく役目をしているが、メンバーに懸命に指導しても成績は伸びないし、私の話をいつも聴いてくれていないと感じる。」
こんなことで、大きくつまずいたりしたことってないですか?
これは、その方法が分かっていないからではなく、実は、
「本当の自分が分かっていない」ことによって引き起こされています。
ですが、ライフチェンジコーチングを体験すると、その本当の自分が分かっていき(ワカル)、
自分自身と対話することを通して、だんだんと本当の自分へ変わっていくことができます(カワル)。
ライフチェンジコーチングを生活に取り入れると、自分自身と本音の会話(自分に素直になること)ができるようになったり、自分が本当に進むべき方向が明確になったりし、
自分の将来を明るいものにしたり、自分自身の人格(パーソナル)を育てることができます。
そして、 ライフチェンジコーチング を受けて来た人達は皆、自分のやりたかったことができ始め、
「思い描いていたことが実現した」
「目標としていた成果が達成できた」
「自分の気持ちを客観的に感じれるようになったことで自分に自信が持てるようになり、人との接し方までいい方向に変わった」
という風に、プラスに発展した自分の人生を大切にして生活をしています。
実際、そのように思い描いていたことが実現できたことによって、
「月収50万円〜100万円を得て暮らせるようになりました。」とか、
「周りからお客様をご紹介いただけるようになり、仕事の依頼が沢山来るようになりました。」とか、
今までの悩んで苦しんで来た頃とはまるで違い、「変わってよかった」と言う声を多く頂きます。
確かに、 ライフチェンジコーチング によって得た結果として、
などの報告があり、誰もがそうなれたらいいなと思うものばかりです。
申し遅れました、私は、ライフチェンジングコーチをしている、尾崎 大祐(オサキ ダイスケ)と申します。
実は、ライフチェンジングコーチとして活躍するこの私も、元々はかなりのコンプレックスにまみれた人間でして、
若い頃は人の言うことを聞かないで無茶苦茶な人生を歩んで来ていましたが、
コーチングによって本当の自分を見つけることができ、現在に至っています。
「もうそんなに何度も転落して、でもまた這い上がってくる人生を生きてきてるんなら、その経験で人を助けて行ったら?」と、ボソッと言われたのが始まりでした。
私は、子供の頃から現在に至るまで、波乱万丈な人生を過ごしてきました。
安定した生活をしたことがなく、無我夢中でやってきたことで数々の失敗をし、
何回か人間をやめようとしたことがあります。
それでも、「自分で勝手に道を選んで来たことだから」と言い聞かせては
何度も再スタートを切りながら、なんとか今までやってきました。
けれど、年歳を重ねていくたびに、もうこれ以上傷を増やさないようにしていかないと、本当に将来が無くなってしまう。
そう、上の言葉は、危機感に押しつぶされて途方に暮れていた時に、友人から言われた言葉だったのです。
「自分の失敗体験が、誰かを助けることになる。」
そうして私は、これからは自身の体験を通して人を助ける仕事で活躍していきたいと願い、
ライフチェンジングコーチとなりました。
私は、学歴がありません。代わりに、夢がありました。
私は少年の頃、ミュージシャンになろうとしていました。
私が取り組んでいた音楽は、「デスメタルバンド」での活動でした。
なぜこのような強烈で暴虐的なスタイルの音楽に精を出し、何を狙いに活動していたのかというと、
自分への劣等感を払拭したかったからでした。
私は、幼少の頃、明るくて豊かな家庭で育ち、近所の人からとても可愛がられるくらいに愛想のある子供だったのですが、
どちらかと言えば、勉強や運動ができる方ではなく、泣き虫で臆病な弱小者でした。
ただ、人の前に出ては芸をして楽しませる一面があり、舞台に憧れを持っていたこともあって、
小学生の頃から、地元の祭りでは張り切って踊りを踊ってみせたり、学芸会の演劇発表では奨んで主役をやったりしていました。
そして中学生になった頃から、ミュージシャンになりたいという夢を見るようになったのです。
そんな自分の中学生最後の秋の話ですが、地域の駅伝大会が開催されることになり、
私はその駅伝大会が嫌で嫌で怯えていて、なんとか走らなくていいように、断る理由を考えていたのですが、
PTA会長から「実は、選手があと1人決まっていなくて。そこは中学生が担当する区間なんだけと、このままだとそこを小学生が走らなければならなくなってしまう。どうか走ってくれないだろうか?」と、
とても困惑した表情で懇願されたのです。
それを聞いた私はなんと、自分でも不思議なくらいに、二つ返事で「走る!」と強く答えたのです。
それからは、毎日行われる練習のチームリーダーを受け持ち、
もう逃げられないんだという覚悟と、負けて恥ずかしい思いをしたくないという一心で、
必死で練習を繰り返しました。
そして練習の結果、自分は区間2位だったってことを伝えられ、
今までビリしか経験したことがなかった自分はとてもビックリして、
「俺って、やればできる人間だったんだ。」と深く噛み締めたことがあったのです。
ちょうどその頃、母親から「お母さん、離婚する。」と、衝撃的な言葉を言われることが何度かありました。
その理由を訊くと、父親が家のお金や母の財布の中身を勝手に持ち出しては、ギャンブルで使い切っているということでした。
そのため、あれだけ豊かで明るかった家庭が、日に日に暗くなっては貧しくなって行き、
そのことがショックだった私は、だんだんと道を外すようになりました。
このようなことが重なったことから、「自分はこれからは強く生きていかないといけない。こんなにも悔しい気持ちを何かにぶつけたい、最恐になってやる。」とフラストレーションを抱くようになり、
奇抜で主張の強いものをまとったり、人と同じことを嫌ったりして、自分を外すようになったのです。
そんな自分がたどり着いたのが、デスメタルバンドだったのです。
平成9年、私は高校への進学を選択せず、自身の描く将来を自分の力で掴み取りたいと想い、
15歳で社会へと出て、お金を貯めて都会に行くことを決めました。
前述の通り、その頃の私は決して物事に万能なタイプではなく、
どちらかと言えば何事も続かなくて、すぐ逃げるような人間でした。
そんな自分が唯一続いた大好きなことが、ギターでした。
「周りがやってなかったことを自分はやっている。」
「他の人ができないことを自分はできる。」
まだまだ何も知らなかった私がそのように感じた、初めて自分で道を決めたことでした。
当時コレだと思うことを見つけたら他のことは捨ててでも追いかける傾向があった私は、
人と違う自分になりたいために進学さえしないと決め、働くことにしたのです。
通っていた中学校にて卒業式を終えた3日後に、最後の懇談がありました。
担任の先生から就業のことを聞かれ、決まっていない旨を伝えた瞬間、
2人だけの最後の教室に夕日が差し込んでは寂しさを伝え、
早すぎた社会への道をスタートさせたのでした。
結果、15歳だった私は働けるところが無く、
唯一頼れた親戚の経営する電気工事会社に雇ってもらい働いていました。
これでお金を貯めて都会に行こうと胸を膨らませていましたが、
未熟者で若すぎて社会歴が無いため、職場で叱られては叩かれ蹴られの毎日。
朝7時に出社して8時から現場作業を開始し、夜は9時10時まで帰れない毎日が続き、
友達が夏休みでも自分は休みなく働きつづけ、かなり重たく太い電線を何本も連続で配線しては天井裏や床下に潜り込んだり、
マンホールの中で倒れそうになりながらも必死で電線を引っ張っているところを先輩が見に来ては、上手く作業を進められてないことに激怒され、
ヘルメットの上からハンマーで殴られたりすることもよくありました。
「仕事を一生懸命やっても、仕事ができなければ叱られる。」
「これが毎日続いていくんだな」と思いながら勤めていれば、流石に恐怖から覚えも悪くなり、
材料運搬や穴掘りやパシリなどの仕事しか与えてもらえなくなり、どんどん自信とやる気が失われて行きました。が、
「自分が選択した道だから」と言い聞かせて意地だけは持ち、何事にもただ「はい」と返事をし続けながら、働き続けて行きました。
当然、高校へ進学をしなかったため友達とは生活パターンが合わずにすれ違って行き、
みんなは高校生として勉強と部活の生活なので、自分の辛さを誰かに相談したくても、
差ができてしまい分かってもらえないことばかり。
私は、悩みを独りで抱えていくしか方法がありませんでした。
そんな中、毎週日曜日だけは、昔からの友達とバンド練習のためにスタジオに集まることが唯一の楽しみでした。
同じ目標に向かって頑張って行けていることだけが、当時の生きがいだったのです。
このように、思っていた以上に過酷な道を選んだことに気付かされた、早すぎた社会の現場から、
夢を追いかけるということは大変なことだと教えられていたのだろうと、今になって解ることでした。
この泣きながら耐えた3年間は、今でもよく夢に出てきては何かを振り返えさせられています。
平成12年より、単身福岡県に移住しました。
そして、色々なことを体験しました。
当時20歳前後の私は、音楽活動でプロとなり活躍していきたいという目標のために、
都会な市場で自身を磨き上げるという道へ進んでいました。
人生初めての一人暮らしで、故郷から遠く離れた大都会で新生活のスタート。
暮らし始めた最初の1年間は、仕事と生活の両立に苦しみながら過ごす毎日で、友人は全くいませんでした。
寂しさと孤独で道を見失いそうになりながら、心が折れそうになりながら、
それでもあの頃からの、「凄いミュージシャンになりたい!!」という憧れだけは
自分に光を当ててくれていました。
そのため、就労をアルバイトなどで働き、お金と時間を活動に費やす大変さと隣り合わせになりながらも、
音楽をする時間を作るために頑張っていました。
そんな状況に合わせて仕事を選んでいたため、パチンコ店・ガソリンスタンド・鳶工・土工などの仕事を転々としながら、
接遇の世界の厳しさや職人の世界の厳しさ、単身での生活の厳しさを体験して行きました。
早すぎた社会で経験した仕事は建設に係る業界だったので、
新しい世界では今までやったことのない仕事をしてみたいと、
都会で就いた初めての仕事は、パチンコ店の店員でした。
持ち前の好奇心と若さだけでやったこの仕事は、今まで体験してきた社会の中でも厳しさの質が全く違うものだったため、
たくましく進んできたと思っていた自分の鼻をへし折られるようなことばかりで挫折をし、
長く続けられず、逃げるかのように辞めてしまいました。
ガソリンスタンドも同様で、その厳しさに加えて更にキツい状況であった、屋外での接客と作業。
心の余裕や頼れるとこが無い状態の自分では、やり通して行くことはできないのだろうと、
賢くなかった当時の私でも、そう理解していたことを覚えています。
そのようなことから、「音楽活動との両立ができて初めて都会に出た意味がある」ということを自分なりに振り返り、
その後はご縁から、鳶工・土工の仕事に就き、夢に向かって再度歩き始めました。
改めて、過去の仕事の経験からコツの分かる仕事をしながら音楽をやっていく方がいいと確信した私は、
いよいよ生活のバランスも取れ始め、音楽活動のコミュニティーへの参加も積極的となり、
新しい仲間達との出逢いが生まれ出してはグループ活動をスターできるようになり、
色々なバンドと交流してはライブへの出演やコンテストへの出場を積み重ね、だんだんと夢を形にして行きました。
人間とは思えないような姿と格好をし、吠えて叫ぶスタイルの歌声を発しながら舞台上で演奏している時の自分は、
まるで自身のノンフィクション映画作品を公開しているかのような気持ちとなれては
全ての自分を心から出してパフォーマンスをすることができ、
その時だけは、自分がこの世に存在する理由をグッと掴むことができていました。
その結果、活動が徐々に話題を呼び各地をツアーで巡るようにまでなり、
メジャーデビューしてまもなくスマッシュヒットしていた沖縄のラウドロックバンド、
「ORANGE RANGE」の出演するステージで演奏したこともありました。
この頃に大きな失敗をした出来事がありました。
それはキャッシングリボルビング払いというローン返済形式にて、
遊びや音楽活動資金を借りては毎月定額で返して生活をしていたということです。
20歳になりローンが組めることを知った私は
「クレジットカード」という魔法のようなものを手に入れたのですが、
初めての一人暮らしで生活の大変さを感じていた頃でもあり
便利が欲しくてたまらなかったため、それを利用してしまいました。
貯金が無いのに、貯金をしていないのに、お金がATMからどんどん出てくることに感動し、
返さないといけないお金だとわかっていても、何かの時には
「カードがあるからなんとかなる、リボ払いにしておけば大丈夫」と勘違いしながら、限度額いっぱいまで借りきってしまいました。
そしてその後5年間ほど、目的が不明瞭なことにお金を借りたいたことや、毎月一定額を返して行けばいいだけだと勘違いしたことが災いし、
借りては返す日々を繰り返しては返済が一向に終わらない体験をするのです。
その結果、たった50万円の借入だったのですが、ずっと返済が終わらない地獄のような毎月に
「このままではマズいのでは?」と気づき始めた時にはもうすでに遅く、
事実上、破産をしていたことが発覚し、債務整理をすることになってしまいました。
そしてそこからさらに7年間、もう借り入れができないこととその元本の返済に追われる生活で、
車検や車の買い替えが迫ってくるため、夜もバイトしてお金を確保し続けるという貧乏で過酷な時期が続いていきました。
そんなこともあって、生活基盤はどんどんブレ始め、都会で単身生活をしていくことが困難になって行き、
20代ですでに破産という経験をしていたのでした。
そして、自分の力ではどうにもできなくなり成す術がなくなった結果、一度地元に帰って基盤を立て直すことを決め、
必死で夢を追いかけた都会での暮らしを無残にも終えることとなったのです。
これを機に、全てはお金が原因で、私のその後の人生は変わってしまうことになりました。
平成15年には、夢と現実の格差に打ちひしがれて鳥取県に戻ることにし、
この地元でできる形で活躍することを選び、地元企業への就労を決めました。
あれだけ夢高々に鳥取を離れたのに、思ったように音楽仲間が見つからずにどうしていけばいいのか分からなかった福岡の1年目。
生活も仕事も新しく1からスタートさせ、
遠く離れた見知らぬ土地での初めての一人暮らしは何事も必死で、
本当にやりたいことが手を付けられないことに苦しみました。
やっとの思いで出会った音楽仲間と活動ができてからも、生活をうまく営むのが難しく、
上記のような大きなお金の失敗をしたり、仕事と活動の両立が大変でお金も無かったり。
ありとあらゆることに疲れ切った私は、鳥取へ戻ることを決めたのでした。
そして、大変だった福岡で経験したことを改めて鳥取でやってみるとどうなるのか、
鳥取だと上手く行くのかを確かめたいと思いながら、福岡での生活を終えたのでした。
鳥取に帰ってきてからは、警備員の仕事に就き趣味として音楽活動を続けては、
地域の音楽文化を盛んにしたく催しを開催したりしていました。
大都会でレベルの高い世界を見てきたこともあって、様々な価値観やモノの見方が養われていたのか、
鳥取ではあえて地元地域の方言をタイトルにし、その上で都会にしかなかったスタイルでパフォーマンスをして見せたりし、
音楽イベントや地元の郷土芸能に参加しては、強烈なインパクトを与えて活動していました。
警備員の仕事においては、まともな学歴のない私でも一から使って頂けるということで、
選択肢の少ない中たどり着けたところだったのもあり、
必要とされて貢献する自分を届けたかった思いから、必死で資格を取得し、
規制計画・人員配置・現場統括・職長会議などの、番頭としての立場で活躍を重ねていきました。
交通規制の基礎知識を勉強し、規制図面を作成しては人員を配置させ、
現場監督からの要望を取り仕切っては、現場で働く隊員を労いながら、
安全な誘導を明確に指示したりしていました。
大雪で高速道路が通行止になったことでI.C前にて車両をUターンさせる誘導を行なわなければならなかった時では、
-5℃の猛吹雪の中でたくさんの車両が積雪の中にはまってしまい大渋滞となり、
「お前らがこんな所で通行止めするからだろうが!!」と
大型トレーラーが立ち往生したことで周りの運転手に大激怒されながら、
腰まで埋まる雪の中を人力で雪掻きをして車両を押し出したりしながら
規制解除が行われるまでを守ったこともありました。
この日は総勢、規制開始から31時間、仮眠さえとれない状態で懸命に戦い続けながら、
お昼の弁当しか持ってきてなかったため、食料が底を尽きた状態の中での業務となってしまって、
本当に死にかけたこの時のことは、今でも忘れられません。
そのかたわらで、自身の人脈からなにかと依頼もあったことから、単発的に仕事を請けるかたちで、
会席の配膳接客・荷物の宅配・露店の出店・店舗の清掃などの業務に携わることも多々ありました。
建設業界がメインだった自分でしたが、このような仕事を手伝いに行くことによって
接客や販売を通しての楽しさと対応力が養われていくことに嬉しさを感じては、
とても忙しい日時に勤務する時々の体験に、達成感を得ていました。
そのような週末請負活動の経験からなんだかピンときて、
起業のように働くスタイルを形成している自分となっていることに気づいた頃でもありました。
「これって、お仕事の依頼を受けて自分を納品しに行っているってことなんだろうな。」
そう感じて、察したことは「商売をやるってこんな感じなんだろうな。」ということでした。
平成23年始め、勤めていた警備会社が倒産することに。
その報せを耳にしたのは、終わる半年前でした。
周りの同僚がチラホラと噂を始め、今後どうしていこうかと模索していた時に、
とある方から「保険代理店をしてみないか?」というお話をいただきました。
さすがにその時の私は、自営業としてやっていくことや保険の世界の厳しさ、
「営業という仕事だけは人生の中で絶対にしたくない」と昔から思っていたのもあったためお断りするつもりだったのですが、
よくよく考えれば「そういえば、まともに学歴・職歴のない自分は、早かった社会のスタートの時から、自分でやっていくしかない道を覚悟して選んだのだった」ということを思い出し、
自分の将来を前向きに描いてみた結果、このご縁を信じたいと、意を決して独立を決めました。
そして、アフラックの生命保険代理店として、人生初の起業をしたのでした。
けど、それはそれは大変な日々をスタートすることになったのです。
スタート研修で出された指示どおりに、サイトセラー・トークスクリプトを50回以上読む毎日。。。
1万円で中古のノートパソコンを買って、操作の仕方がわからないまま初めてのPC作業。。。
たくさんの教材やテキストを一気に渡されて、どれから手を付けていいのかわからない。。。
その日から、その翌日から、「出勤がない変な感じ」と「何をしたらいいのかわからない」日々。。。
業務説明日から1週間経った頃、営業担当から電話があり「何件とれました?」と聞かれ、
いつから仕事がスタートしているのか、何からやればいいのか分からかった私は、
「まだ何もやっていません」と回答したんです。
すると担当に「え!早く契約とりに行かないと!なにやってるんですか!」と言われてビックリし、
「まずは友人や知人に、開業したことと商品説明の練習に付き合ってもらいたいことを伝えて、一人でも多くの人に会えるようにしていけ!」
と指導されながら、焦りを感じながら活動をスタートさせたのでした。
このように、よくわかっていない自分であろうが常に訪問先を作っていかなければならなかったこと、
こちらからのアプローチによってかしこまった顔や声となるお客様から「保険はいいです」とサクッと断られること、
それが繰り返されては訪問先が尽きてしまい、契約をいただけなくなっては収入がほとんど得られないこと、など、
開始早々から想像を絶するほどに苦しいことに見舞われて、しんどくて逃げ出したかった日々。
それでもこの仕事は、世の中の人々にとって突然訪れるリスクな物事や素敵な将来を迎えるための準備を
お金という部分で支えていく「大切な仕事」なんだと、想いを抱き必死で続けて行きましたが、
必要としている人がいない(正確には今は求めていない)ことがとても厳しい現実だったため、
生活を維持しなければならなかったのに売上はほとんどなく、仕方なく他の仕事も営むこととなり、
兼ねてから活動している音楽芸能の分野から頼まれていたことでもあった、
催し物や舞台に関する仕事も行うようになりました。
それは、イベントに関する内容の業務でした。
この仕事では、どこか気持ちを楽にして取り組める感覚でいられ、すべて受注で業務するかたちだったことから、
数字のようなものに追われる感じが無く営め、自然と事が展開されていく流れに加えて喜んでいただく反応が顕著に窺えたりで、
保険の活動とは性質が違うなと感じられたことで、並行してやっていくことができたのです。
イベントの仕事では、企画の運営代行・進行計画の策定・資金の運用計画・舞台の演出・台本の作成・出演者の派遣手配・音響の施工操作・司会進行や舞台監督などを担当し、
少ない量の仕事ではありますが、地方自治体や民間団体、広告代理店や舞台制作会社から委託や応援を請け活躍していたりします。
このようなかたちで自身のビジネスを営んで来たことからでしょうか、
人と人を紹介しつなげていく依頼が多く、また自身にもつながることを依頼されることが増え、
現在では小中学校へ非常勤講師として授業を行うことがよくあります。
そして令和元年末、私は保険販売をやめました。
そして現在は、ファイナンシャルプランニングやパーソナルコーチング、
お金の正しい知識や適切なお金の使い方の講習、
夢や目標を実現するためのサポートをする業務をしています。
それが、ライフチェンジングコーチという職業です。
私はこの保険代理店を営んでいる時はずっと、契約を取らないといけないという保険セールス側の事情に縛られて、
中性的に客観的にアドバイスすることが出来かねてしまうことに悩んでいました。
正直者なのか、その裏事情を度返ししてでも、お客様には中性的で客観的にアドバイスをするタイプだったので、
セールスで数字を伸ばしていくのがヘタクソで、結局商売も厳しい状態が続いていたのです。
保険セールスの世界が全てにおいてこの様な事情だとは断言しませんが、
少なくとも私はこの様な実態の中、必死で保険業の世界で活動を続けていました。
そして自身の意が反している感覚を抱きながらも、使命を持ちながら約10年間、保険代理店を営んでいました。
そして2019年に、心の病気となったことで、今まで必死で努力してきたこの生命保険代理店経営を、泣きながら廃業しました。
そう、中性的にアドバイスしてもご契約になり難い一面がある世界には、私は適応できないタイプだったのです。
どれだけ信念を持って活動をしていたとしても、業界が世間へ作り出してきたイメージに
合わせてやって行ける者が生き残っていける世界であることは、否めないのでした。
そして、保険販売をやめた私は、それから1年後のある日、
もっと中立な自分で、お客様目線でのアドバイスや計画ができる道を選択し、
再び活躍できるようになることを強く願い、信じて、
新しい自分となって、活動を開始ししました。
それが ライフチェンジングコーチでした。
ライフチェンジングコーチとなってライフチェンジコーチングを提供していこうと決めたのは、
人生で大切な生きがいとお金を健康化していける最適なサービスであること、
それをもっと世の中に知ってもらって味方に付けてもらえるよう普及して行きたいと思えたこと、
そこに感銘を受け、ライフチェンジングコーチとして再スタートを切ることにしたのです。
それからの私は、自身が所有する「ファイナンシャルプランニング技能士」の資格に、
さらに技能を追加したいと思い、「認定コーチ」の資格を取得しました。
それは、私が保険代理店を営んでいるときに思ったように契約をいただけなくて苦しい思いをしたことがきっかけで、
自分が発するコミュニケーションのやり取りがお相手にとって一方的で厚かましく伝わっているのがわかり、
凄く気持ちを落としたことがあったのがきっかけでした。
お相手に上手に話すことができて、契約をとってくる。
このような形で保険営業というセールスは成り立って行くと思われる方が多く、
そのため保険営業にはきまって、黒っぽいイメージがつきまとうものです。
でも、営んでいる時にいつも思っていたことは、
「お客様となって頂く方に、必ず利益と安心が約束される保障を提供したい。」という想いでした。
ですが、その使命を強く持って必要なことを伝えていったとしてもお相手は難しい話だと感じるのか、
複雑な表情をされては、話は流れてばかりだったのです。
なので、どれだけ想いや理念を大切にして活動をしていたとしても、結果が伴わないのであれば、
嫌でも自分のコミュニケーションの取り方を疑うしかありませんでした。
実際、私はセールスが苦手なまま、約10年間代理店経営をやっていたわけです。
そして徐々に徐々に自分の自信を失っていく。。
振り返れば、なにもかも分からないままなんの勉強も事前準備もしないまま独立したことで、言葉にならないくらいに失敗し、
一人孤独に悩みを抱え、明日ともご飯が食べられるのか分からない恐怖を抱えながら、数少ないお客様のために必死で営んで行ったことで、
最後には「うつ・適応障害」と診断され、10年間しがみつき貫いた世界から退くことを決め、廃業をすることに至ったわけですから。
ここまで来て、本当に何も無くなってしまった私は、この時37歳。
「もう何も手に入ることはない残りの人生をただ無気力に生きよう」と決めたことがありました。
実は2021年の9月に、私と血がつながっている仲の良かった従妹が、自殺をしました。
彼女も長きに亘って、自分の人生が上手く行かなくて病んでしまったことを機に
精神病院への入退院を繰り返していましたが、同年8月に、
37歳の誕生日を迎えた矢先、自ら命を絶ちました。
いくら人生は自業自得だと言っても、この歳まで来ると、
自分の人生がもうすでに色々とボロボロだったら、
絶望と責任を感じて、このように人生を終わらせることを誰だって考えます。
私もこの時、実際そうだったんです。
ですがその時私は、偶然にもそのタイミングに、
「コーチングで本当の自分を見つける」という言葉をインターネット上で見つけたのです。
私はその言葉がどうしても頭から離れなかったため、そのままコーチングのことを少し調べてみたところ、それはもう衝撃でした。
そこにはなんと「自分が今まで歩んで来た失敗人生を、人のために生かせる」ってことがたくさん書いてあったのです。
その瞬間「自分は本当は誰かのために活躍をして、自分の人生を自分しかできない形で生きて行き、
たくさんの人を助けて行きながら、みんなと一緒に幸せになりたかったんだ。」ってことを思い出したのです。
そして、とある実績の凄いコーチの方から、実際にコーチングを受けることにしました。
その結果、ここまで来てこんなにも取り返しのつかない人生となっていた私でしたが、このコーチングと出会ったことによって、
「学歴も職歴もない自分が掴み切れなかった幸せをもう一度だけ掴み取りたい」という自分と
「自分と同じように苦しみながらもたくましく社会を生きている人達を支えることができる仕事を心からやっていきたい」という自分を
見つけることができたのです。
そして、それを機にとことんコーチングを勉強した私は、日本実務能力開発協会が発行する、
「認定コーチ」という資格を取得し、これが人生で最後のチャンスだと心に決め、
ライフチェンジングコーチとして人生を再スタートさせました。
コーチの資格を取得し、プロコーチとなった今思うことは、この資格が称号になることが目的ではなく、
日常の単なる触れ合いでさえ、今まで以上に温かい気持ちで接することができるようになってよかったということです。
人の話を先ずは聴き切る。そうすると自然に関心が生まれて勝手に会話が弾むようになる。
どのようにしたら上手く行くのかずっと分からないで苦しみ続けた生命保険代理店時代では、
「上手く話さなければいけない、口が上手でなければならない。」と、捉われていてばかりだった私でしたが、
コーチングを身につけてからというもの、まるで見違えるくらいに
その上手く行かなかった原因や理由が分かるようにまでなりました。
だからこそ今、たくさんの失敗を積み重ねてきたことで押し潰されていた自分から大逆転し、
この失敗がどのような原因や理由から生まれたのかを、実体験を基に伝えて行くことができ、
今たくさんの方を支えて助けて行きながら活躍をしていけるようになったのです。
コーチングは、私のこのラストチャンスとなる人生を、180°変えてくれました。
このように私には、苦しみながらも体験した、かけがえのないストーリーがあります。
そしてそのストーリーを大切にし、ライフチェンジングコーチとなって、心からよかったと感じています。
私のような人間でも、自分らしさを見つけて、なりたい自分で活躍することができている。
今私は、この感動を伝えていきながら、自分の人生を悔いなく過ごしていきたいと願う多くの人を助けることができているのですから…
ライフチェンジングコーチ
尾崎 大祐(オサキ ダイスケ)
在住:鳥取県鳥取市
血液型:A
生年月日:S57.3.30
趣味:作曲
水泳
ラジオ
好きな音楽:EXILE
和田アキ子
THE CHAINSMOKERS
好きなもの:チキンラーメン
ちいかわ
NEXCO西日本
1995年生まれのカメを飼っています(・へ・)
「相談を受けてもらった時やコーチングを実施してもらった時、D.Oさんは特に、
自身が失敗した時の体験に例えながら、それをどのように改善したのかや、
その時に思っていたことや感じていたことまで添えて話してくれるから、
自分の気持ちや思いと照らし合わすことができて分かりやすかったんです。」
という言葉を頂いたことがありました。
その他に「自分の情けなかったことを惜しげもなく包み隠さずに話してくれるから、
親近感が湧いてなんでも話しやすかった。」というご感想も頂いたりと、
私が、いくらコーチという立場なため先生と呼ばれることがあったとしても、
皆さんと同じ人間でありレベルの違いなんてものはなく、
人はそれぞれが体験してきたことで培う個性(ラベル)があることの方が正しいといつも考えていたので、
凄く嬉しい言葉でした。
これは、相談をされた方がいかに本音で、素直な自分で話すことができ、
自分をありのままに伝えることができた達成感から生まれたご感想だと自負しました。
皆さんもそうだとは思いますが、職場の人の中で素の自分で話したり接したりできる人って中々いないのではないでしょうか?
これが家庭においたとしても、父親な自分、母親な自分、夫としての自分、妻としての自分があり、
子供でさえ親に対して素直に相談ができなかったりするものだと思います。
だから人は、自分の悩みや本音など、
素の自分を出してなんでも話ができる「第3の場所」が必要なのです。
そのようなコミュニケーションが取れる場所があってこそ、
職場や家庭での自分を健康健全に保つことができ、
日常生活を営みやすくすることができるのです。
実は、ライフチェンジングコーチが行っているパーソナルコーチングが、その「第3の場所」としての機能をしています。
日本人は、徹底的に対話をして理解や共感を得るという文化がありません。
会話の仕方も「それくらい分かるだろう」「気づいてほしい、察してほしい」的な表現となり、
具体的な説明や意思を率直に伝えることが少なかったりします。
そのため、それぞれの解釈の違いによって微妙に話が食い違ってくることがあり、
誤解や不信感が生まれて人間関係に亀裂を生じさせることがあります。
そのようなことから、自身の気持ちを整理するためには、
とことんまで話を聴いてくれる場所が必要となってくるのです。
そこに着目し、コーチングでは、
①話を徹底して聴き、
↓ ↓ ↓
②その話や発言を分かりやすく要約し、確認しながら理解していく。
↓ ↓ ↓
③そして、どんな発言もちゃんとした一つの想いから生まれているため、受け止め、認める。
という手順を繰り返しながら、
相談された方の言いたかったことを整理し共感していくプログラムとなっており、
自己を実現するために発見や気づきのきっかけを与えることが、コーチの役目となります。
なので原則、具体的な助言は行わず、気づいてもらう対話をする形をとります。
ですが、時にこんなことに直面することがあります。
それは、人は「頑張れば頑張るほど、発見や気づきさえ生まれてこないことがある」ということです。
基本的に、目標を達成したい人の心って「頑張っている状態」です。
そんな時、発見や気づきができなくなってくることが案外あります。
私もコーチングを受けて来た一人なんですが、発見することにまで集中をすると、
逆に答えが出なくなり苦しいなと感じることが多々ありました。
その体験から、D.Oが行うライフチェンジコーチングでは、必要に応じて助言まで行う
「進むべき方向性とその手順のコンサルティング」も導入しています。
こうすることによって、結果的に相談者自身で、解決の糸口や問題の答えを見つけ出すことができるようになるのです。
このようにして、困っている人やつまづいている人を救い上げ、
自分の足で再び歩いていけるように支援をするものが、
D.Oが行うライフチェンジコーチングです。